意識と無意識

無意識というのは便利なものだ。無意識が仕事をするおかげであるタスクに対してそこまで意識をする必要がない。それをこなす際に全ての事象に意識を割かないといけないようではさすがに脳がパンクするからだ。何をするにしても無意識に任せてしまうのがよいだろう。本当か?

無意識的に行うとそれを行なっていることを意識する機会もほとんどない。無意識的な行動に対するアウトプットがいつもと大きく異なった場合、その行動に対して意識が発生することがあるだろう。例えば、ブレーキペダルを踏んだつもりがアクセルペダルを踏んだ場合、踏む瞬間までは無意識だろう。しかし、車が思いもよらぬ挙動を示し、何かに衝突するとハッと意識の世界に遷移する。今、無意識にやった行為がどうだったのかとそこで振り返るのだ。

もし、無意識行動に対するアウトプットが想定と大きく異なるという現象に対しての損害が小さいならいいだろう。しかし、大事故を招く場合もある。すなわち、時すでに遅しなのだ。

全てを無意識に任せてしまうと事故につながる危険性がある。無意識に任せていいものと、意識的にやるべきことを区別する必要があるだろう。その基準は、「無意識行動に対するアウトプットが想定と大きく異なる場合の損害の大きさ」を基に決めるべきだろう。

これは安全に関する考え方につながる。安全に生きていくために何を意識するべきか決めるべきだ。そして決めたことに関してどれだけ意識的に行えていたかのレビューをこまめに行うべきだ。意識すべきことを意識できているかということに関して常に自分をモニターするべきだ。さらには、意識するべきことを意識し続けるために並行的に行なっていることをできるだけ無意識の領域に持っていく必要がある。脳のリソースを温存するためだ。

というわけで、全てを無意識に任せるのは危険だ。意識と無意識の最適なバランスを追求しながら生きていきたいと思った。